先日公開された『攻殻機動隊 SAC_2045 シーズン2』を観ました。
11話まではとても面白く、次が気になって一気に観賞したのですが、最終話となる12話で私はただただキョトンとしてしまいました。
12話の冒頭を観た私は、『1話飛ばしたのか?』、『シーズン1の12話か?』などと、パソコンの前で右往左往してしまいます。
それくらい『攻殻機動隊 SAC_2045 シーズン2』のラストは、よくわからない描き方をされているのです。
わからないというよりも、説明が不足していると書いたほうが正確かもしれません。
作中で話している1つ1つの内容は理解できるのですが、明らかに説明不足な部分があり、パズルのピースが埋まっていないような感覚に陥ります。
おそらく、こういった感覚になったのは私だけではないでしょう。
ということで、私なりに『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンを考えてみました。
※以降、ネタバレ的な内容を含みます。
※『攻殻機動隊 SAC_2045』を観たものと考え説明していくので、用語の説明などは省きます。
※時間のない人は、とりあえず追記の前までお読みください。(続きは時間のある時にお読みください)
※時間を持て余している人は、記事の下にあるコメントまで読むことをオススメします。
作中で核ミサイルは発射されたのか?
『攻殻機動隊 SAC_2045 シーズン2』の11話は潜水艦から核ミサイルが放たれるシーンで終わるのですが、12話(最終話)では全く別の話になり、核ミサイル発射の続きが描かれることはありません。
12話で江崎プリン(以下、プリン)は、草薙素子(以下、少佐)に対し『核ミサイルは人によっては発射され人によっては回避された』と曖昧な説明をしていました。
この説明を聞いた多くの視聴者は、頭の中に『?』の文字が浮かんだことでしょう。
おそらく『攻殻機動隊 SAC_2045』の世界において、核ミサイルは撃たれていないと思われます。
作中、核ミサイルはN化した住人の手に現れる視覚認識できるバーチャルなボタンを押すことにより発射されます。(正確には、N化した住人がボタンを押したことに反応して、ミズカネスズカ型のアンドロイドが潜水艦内のボタンを押す)
実際には、新東京の屋台のある場所にいた住人が、信仰しているビッグブラザーことシマムラタカシが少佐に撃たれ死んだことに反応してボタンを押していました。
この際に米軍機によるスマートガスはすでに撒かれており、少佐が意識をなくすシーンで11話が終わります。
しかし12話でプリンが少佐に説明したところによると、スマートガスが散布される数時間前には、新東京の住人は地下施設のカプセルの中に入ってN(ダブルシンク状態)になっているので、屋台のある場所にはそもそも人など存在していないと考えられます。
ポストヒューマンであるシマムラタカシが得意としていることは、他人にリアルなバーチャル体験をさせることです。
この能力により、シーズン1のラストでトグサが操られるように行方をくらまし、数カ月間も意識がない状態(おそらくダブルシンク状態)に陥ってしまいました。
ですので、11話のラストで描かれた核ミサイルの発射シーンは、シマムラタカシによって作られたバーチャルな世界を9課の誰かが見ていたと考えられます。
シマムラタカシが少佐にが撃たれて死ぬシーンもバーチャル世界の出来事で、そのバーチャル世界の映像をネットに流し、シマムラタカシの作戦が失敗したように見せる作戦もあったと作中で言及されています。
核ミサイルが実際に発射していたら確実に戦争が始まってしまうはずですが、9課の面々が揃うラストシーンで描かれた世界は平和な状態だったことからも、核ミサイルは発射されていないと考えられるわけです。
おそらく、シマムラタカシが1度睡眠して目を覚ましたあたりから、バーチャルと現実とが混ざりあった世界がアニメ内で描かれていたのでしょう。
9課の人間が死んだように見えたのも、バーチャルの出来事の可能性が高いと思われます。
ただ、ボーマが車いす生活になるなど実際に被害を受けているので、これについては一概にそうであるとは言い切れません。
あるいは、疑似記憶であっても脳核を完全に抜かれるという大きな被害に遭ったボーマは、脳に傷害を負うレベルの精神的ダメージがあったのかもしれません。
それ以外のメンバーは、全身義体なので回復が可能だったと思われますが、どの時点で地下施設に移動し(スマートガスを回避し)、どの時点でそこから出ていったのかなどは不明のままです。
ラストシーンのプリンに関しては、みんな知っているけど知らないフリをして接しているように個人的には見えました。
少なくとも、トグサとバトーはプリンのことを理解していたように思えます。
ダブルシンクが示す本当の意味とは?
ここまでが1つの考えなのですが、『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストに関しては、もう1つ別の解釈があります。
それは、ダブルシンク状態の思考の中が描かれている可能性です。
12話の中盤で、少佐は全人類のN化(ダブルシンク)に成功したシマムラタカシと対峙し、世界と繋がっているコードを抜くか抜かないかの選択に迫られます。
このコードを抜けば全人類のN化は解かれ、抜かなければ極々一部の人間を除いて全人類はダブルシンクの状態に入ります。
少佐がこのコードを抜いたかどうかは明確には描かれず、抜こうとした瞬間に時が過ぎた9課の面々が揃うラストシーンが始るので、実際にコードを抜いていない可能性も考えられるわけです。
上記した話は少佐がコードを抜いたと仮定した話でしたが、コードを抜いていない場合、以降の話は誰か(バトー?トグサ?)が見ている仮想現実ということになります。
こういった、どちらの可能性もあるように思える描き方を制作者は意図的に行っており、ラストシーンで離婚しているはずのトグサが家族と仲良く連絡している(離婚していないように思える)のもそのためです。
少佐とバトーが会話をする最後の場面では、次に合うときは互いを認識できないかもしれないと少佐がバトーに対し言っています。
これは基本的に原作のオマージュなのですが(暗号の話は旧アニメのオマージュ)、ダブルシンク状態のバトーと現実世界にいる少佐が、もはやお互いを正しく認識できないことを示唆しているようにも思えるわけです。
以上のように、少佐がシマムラタカシからコードを抜いたか抜いていないかでラストシーンの考え方は全く異なり、それを制作側があえて明確にしなかったことで、『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストはわかりづらくなっているように感じます。
視聴者からすると、どっちの世界を見せられているのか理解できないので、わかりづらいと感じるのも当然な話です。
そしてその意図は、視聴者すらもダブルシンクの状態にすることにあると思います。
アニメの中の設定であるダブルシンクを現実の世界に落とし込み、視聴者の思考をアニメと同じように2つの考えが脳内に起こる状態にしようと制作者(神山健治)は思ったのではないでしょうか?
あるいは、ダブルシンクとはアニメという仮想現実と実生活という2つの世界を表しているのかもしれません。
もっと深読みするのなら、難解なラストシーンを描くことにより、視聴者が日常生活をしながらも『攻殻機動隊 SAC_2045』のことを考えてしまうという”リアルのダブルシンク”な状態を作りたかったのかもしれません。
そのリアルなダブルシンクを発症する条件こそが『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンを観ることであり、これは作中における郷愁ウイルスに値します。
攻殻機動隊が世に出て30年以上、S.A.C.シリーズに限定しても20年弱が経過し、様々な攻殻機動隊作品が作られ毎回完結しているにも関わらず、それでも新作を求めるファンの姿は郷愁そのもので、こういった攻殻機動隊における現実の話も『攻殻機動隊 SAC_2045』には反映されているように感じます。
作中、ダブルシンクの状態は人類進化における1つの特異点であることが示されていましたが、アニメと現実世界の境界線をなくすような描き方こそが、アニメにおける1つの特異点のように私は思え、『攻殻機動隊 SAC_2045』の底知れない深さを感じるのでした。

追記1:『攻殻機動隊 SAC_2045』に対する作者の想い
漫画でもアニメでも実写のドラマでも、1つの物語が完結したら、視聴者(読者)は新しい作品を求めるのが正しい選択なはずです。
しかし現実は、過去にヒットした作品の続編だったり、リバイバル作品が数多く発表されています。
または、いつまで経っても終わろうとしないストーリー漫画も多数確認できます。
世界的に見ても、『ゴジラ』や『スター・ウォーズ』の新作が作られ続け、近年においても大ヒットを収めたことは周知の事実です。
商業的に見れば、過去作品の掘り出しは大成功を収めていると言えます。
しかし、作者の感情は複雑なのかもしれません。
『攻殻機動隊 S.A.C.シリーズ』を手掛けた神山健治さんは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の発表以降、攻殻機動隊以外の新しい作品を世に出しても、世間からの注目は攻殻機動隊作品に集中する傾向が極めて強くなっています。
挙句の果てには、ストーリー的に終わらせたはずのS.A.C.シリーズの新作を作ることを何度も求められます。
こういったファンや周囲の動きに対し、自分が作った過去の作品をいつまでも愛してくれているという嬉しい気持ちがある反面、新しい作品への評価に対する不信感もあるはずで、そこには複雑な感情が見え隠れするのです。
『AKIRA』の作者である大友克洋さんが、AKIRAの完結以降に活動が先細っていったのも、こういったヒット作のある作者の悩みが影響しているように感じます。
過去の作品をいつまで経っても愛し続けるファンの心理は郷愁心(過去を懐かしむ心)そのものであり、攻殻機動隊ファンが過去の作品に対して長年郷愁に浸っている現実こそが、『攻殻機動隊 SAC_2045』における郷愁ウイルスの元ネタになっているのではないでしょうか?
そして、時代が進み新しいアニメ作品などが次々と誕生しているのに関わらず、いつまでも攻殻機動隊(S.A.C.シリーズ)の続編を求めてしまうファンの心情は一種のダブルシンクなのかもしれません。
以上のように、『攻殻機動隊 SAC_2045』の最終話には、攻殻機動隊(S.A.C.シリーズ)にまつわる自身やファンの感情にまつわる作者(神山健治)の心理が反映されているように思えてならないのです。
2022年5月28日追記
追記2:『攻殻機動隊 SAC_2045』の最終話が2022年に公開された意味
『攻殻機動隊 SAC_2045』のシーズン2が公開されたのは、2022年5月23日のことです。
もし、これが『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の公開された2002年~2003年だったら、『攻殻機動隊 SAC_2045』は訳の分からない終わり方をしたアニメという評価で終わっていたことでしょう。
しかし『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の公開から20年近い時が過ぎた現在では、SNSや動画サイトで個人の意見を言うことが当たり前ですし、その意見に対して更なる意見・反論がされることも日常的です。
こういったSNSが発展した時代では、解釈の難しい作品を世に出してもインターネットを通じて意見の交流ができるため、内容さえ伴っていれば、視聴者はしっかりとした評価を下すことができます。
※2002年の時点でもネット環境は整っていたが、個人間の意見のやりとりは一般的ではなかった。
エヴァンゲリオンを例に見ても、1998年に公開された旧劇場版と呼ばれる作品は評価がイマイチだったのに対し、2021年に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は100億円以上の興行収入を記録するなど高い評価を得ています。
もちろん、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』はストーリーを丁寧に描いた点なども高評価に繋がっているのでしょうが、旧劇場版から1番変わった点は視聴者の作品を観る(考察する)目だと思います。
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』やエヴァンゲリオンの旧劇場版が公開された2000年前後と比べ、現在のアニメ視聴者は難しい内容の作品を解釈できるほどレベルが上がっているのです。
特に攻殻機動隊やエヴァンゲリオンは理解度の高さを求められる作品で、ファンの意見交流が盛んなため、難しい内容の作品を理解できる視聴者の割合が多いと言えます。
以上のように、解釈が非常に難しい『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンが今の時代に公開された事実は、とても意味があることなのだと思います。
ここまでの話を聞いて、気になる点を感じた人がいるかもしれません。
それは『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の影響を受けているのではないかという疑問です。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』もアニメキャラクターが現実世界に飛び出すなど、アニメと現実の境界線をなくすような演出がされ、私が上記した『攻殻機動隊 SAC_2045』の考察に通ずるものがあります。
しかし先に結論をを言ってしまえば、『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の影響を受けていないと思われます。
なぜなら、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は2021年3月8日公開なのに対し、『攻殻機動隊 SAC_2045』は2020年4月23日にシーズン1が公開されているのです。
『攻殻機動隊 SAC_2045』のシーズン1が公開された時点でシーズン2のストーリーも大筋ができているはずなので、『攻殻機動隊 SAC_2045』シーズン1の後に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の影響を受けたとは考えにくいと言えます。
それでも、2022年5月23日公開のラストシーンぐらいなら描き直す時間的なゆとりがあったと考える人はいるかもしれません。
しかし、その可能性も低いと思われます。
『攻殻機動隊 SAC_2045』はネット公開という特性上、世界中の人が同時に観るため翻訳作業が必要で、脚本はかなり早い段階で完全な形で書き終わっていたはずです。
更に、新型コロナウイルスの影響がなければ『攻殻機動隊 SAC_2045』シーズン2の公開は1年ほど早かった可能性もあり、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を神山健治さん(SAC_2045のストーリー構成担当)が観て、その後に『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンを考えたという可能性は極めて低いと判断されます。
2022年5月29日追記
追記3:『NOSTALGIA / 全てがNになる。』の意味
『攻殻機動隊 SAC_2045』には各話ごとにサブタイトルがあり、シーズン1の最後となる12話のサブタイトルは『NOSTALGIA / 全てがNになる。』という今になって考えると極めて意味深なものでした。
これは、最終回(シーズン2の12話)で判明した作中全ての人(極々僅かの人を除く)がN化してしまう状況を言い表していると考えて間違いないでしょう。
しかし、ひょっとしたら『攻殻機動隊 SAC_2045』を観た全ての人がNになってしまうという意味だったのかもしれません。
上記してきたように、攻殻機動隊ファンの多くが作品に対し郷愁(NOSTALGIA)の気持ちを持っていることは間違いないでしょうし、あのラストシーンを見た人はかなりの割合でダブルシンクな状態(N)に陥ったと思われます。
そんな状況になることを見越し、シーズン1の最終話というキーポイントで『NOSTALGIA / 全てがNになる。』という意味深なサブタイトルを意図的に付けたと思えるわけです。
そう考えた場合、視聴者のN化はシーズン1を見終わった時点から始まっていたと想定され、かなり早い段階から視聴者を巻き込んだ壮大なストーリー展開が始まっていた可能性も感じ、『攻殻機動隊 SAC_2045』の底知れない凄さを改めて実感するのでした。
2022年5月31日追記
追記4:これで攻殻アニメは終了? S.A.C.シリーズとは何だったのか?
『攻殻機動隊 SAC_2045』を観て、攻殻機動隊のアニメはこれで最後なのではと考える人がとても多いようです。
実際に、今後の攻殻機動隊がどうなるのかはわかりませんが、少なくともS.A.C.シリーズは今作で終了すると思います。
更に言えば、神山健治さんがシリーズ構成を務める攻殻機動隊作品は、今後作られないと思います。
S.A.C.シリーズとは別の世界観で攻殻機動隊が描かれる可能性はありますが、『攻殻機動隊 SAC_2045』の続きを神山健治さんに求めるのは酷な話です。
神山健治さんは攻殻機動隊という作品に対して全てを出し尽くし、視聴者を十分に満足させたと言えるでしょう。
攻殻機動隊の原作及び劇場版第1作は、AIから派生した生命体である人形使いと少佐が融合するという壮大なラストシーンが描かれます。
一方、過去に作られたS.A.C.シリーズは、ストーリーのまとまりに関しては原作以上だったかもしれませんが、ラストに関しては原作ほどのスケールは感じられませんでした。
しかし今回の『攻殻機動隊 SAC_2045』が示した全人類のN化(ダブルシンク)するというラストシーンは、原作に劣らないレベルのスケールにまで達したと言えます。
そういった意味でも、神山健治さんは攻殻機動隊に対して全てを出し切ったと思い、これ以上の神山攻殻はないような気がするのです。
そもそもS.A.C.シリーズは、少佐が人形使いに出会っていなかったらというパラレルワールドとして描かれたものでした。
つまり、S.A.C.シリーズは始まったときからダブルシンク的な発想が組み込まれていたわけです。
そんなS.A.C.シリーズが、ダブルシンクというキーワードを視聴者に残し終わることは、もっともキレイな終わり方と言えるのではないでしょうか?
よって私は、S.A.C.シリーズ自体が攻殻機動隊本編に対するダブルシンクであったと思い、今作をもってS.A.C.シリーズが終わることも納得したいと思っています。
2022年6月2日追記
追記5:西暦2045年の攻殻機動隊について
『攻殻機動隊 SAC_2045』は、タイトル通り西暦2045年の世界を描いた作品でしたが、現実の2045年に攻殻機動隊はどのような扱いになっているでしょうか?
23年も先のことなんてわかりようもないと思うかもしれませんが、漫画やアニメの世界において、23年という時間は大したものではないのかもしれません。
例えば、今年は1979年に放送された『機動戦士ガンダム』(ファーストガンダム)の1エピソードである『ククルス・ドアンの島』が映画化された他、『ドラゴンボール』の新作映画も公開、『シティーハンター』の新しいアニメ映画も製作決定と、古い漫画・アニメ作品に日の目を浴びること多くなっています。
1978年から1987年にかけて雑誌連載され、1981年から1986年にかけてアニメが放送されていた『うる星やつら』も、今年から断続的にリメイク版のテレビアニメが放送されるそうです。
2018年から2021年に放送されたNHKスペシャルのシリーズ『東京リボーン』には、攻殻機動隊に並ぶサイバーパンク作品の名作『AKIRA』に登場した金田のバイクが映像として採用されました。
以上のように、漫画やアニメの名作は、時代が過ぎても読者・視聴者の心を離さないのです。
ですので今から23年後の2045年であっても、『攻殻機動隊 SAC_2045』の最終回について『あのラストシーンは何だったのだろうか?』など思いを馳せる人たちが多数いるものと想定されます。
それは郷愁に浸り(郷愁ウイルスに感染し)、現実世界を生きながらも過去のアニメ作品の世界から抜け出せないというダブルシンクそのものの状況と言えます。
そんな仕掛けが『攻殻機動隊 SAC_2045』にあったとするのなら、その壮大さには敬服するばかりです。
2022年6月11日追記
追記6:この考察を書いてみて
『攻殻機動隊 SAC_2045』を観終わった直後の私の感想は、最終話が複雑すぎて『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』や『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』に比べるとつまらないというものでした。
しかし、この考察を書くにあたって作品の中身を精査し自身の頭の中も整理した結果、上記したような作者やファンの複雑な感情や関係性が作中に反映しているという理解に至り、今作の底知れない面白さを感じとることができました。
今となっては、過去のS.A.C.シリーズの中で、もっとも面白い作品は『攻殻機動隊 SAC_2045』であると思っています。
3Dで描かれた絵的な問題はありましたが、ストーリー的には今作が過去最高であると胸を張って言えます。
私が導き出した『視聴者をダブルシンクにする』という結論が正しかったかどうかはわかりませんが、その可能性を感じとれただけでも十分です。
これは当記事を書くことで得た部分も大きく、この考察記事を書いたことはとても有意義だったと感じています。
2022年5月28日追記
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コメント
新東京でトグサの逃亡を手助けした女性はどうなったのでしょうか?
あれはシリーズ1に出てきたシマムラタカシの同級生で、自死した(と思われる)カナミですね。
異常な身体能力や途中で姿が消えるシーンがあることから実在していないと思われますが、今やカナミが死んだことすらも現実かどうか判断がつかず、明確に説明することは不可能になっています。(課長の車が爆破されるシーンにいた理由もさっぱりわかりません)
おそらくシマムラタカシが作り出している幻(疑似記憶)の類なのでしょうが、シマムラタカシの意に反した行動をしているように思えるので、ひょっとしたらシマムラタカシの脳内に存在する異分子(自身の活動を否定しようとする意識)のかもしれません。
シリーズ1に出てきた従姉妹のユズも同じような存在と思われます。
(・(ェ)・) あの女性は「プリン」の幻影なんじゃないかな?
くまも見終わってから不思議と感じてた。
Nの言葉の意味って分かります?
何かの略に思えますが・・・
正確にはわかりませんが(制作陣が意図的に明確していないものと思われる)、おそらくノスタルジア(Nostalgia)のNと思われます。
作中でも最終話の重要なポイントでノスタルジアという発言がありますし、当作品におけるキーワードの1つ『郷愁』も英語に直すとNostalgiaとなります。
シマムラタカシの過去話に出てきた京都の村、新東京のタバコ屋、フォルクスワーゲンのバン、潜水艦の黒電話など、当作品にはノスタルジックな描写が異常に多く、Nの候補になる言葉を作中で探すのならNostalgia以外にはあり得ないと思います。
全然頭の中で纏まらないのですが、恐らく核発射もスマートガスもNの世界の出来事で、カプセルに入ってる人々が見ている世界だと思います。
トグサが東京に着いて画面が回り桜と屋台が出現するシーン、これはNに入った事を意味しているのでは?屋台があるのがNの世界とすると核のボタンを押し始めるのも屋台にいる人々なのだと思います。なので死んだはずのカナミがいて、それはタカシの記憶にいるカナミなのだと思いました。
課長爆破の際にカナミが居たと書かれてましたが、課長を車に乗せる女性の事を言っていると思いますが、あれはカナミではないと思います。理由は単純なのですが、ネトフリの字幕ってかなり優秀で、セリフを言ってる人の名前が頭に付きます。どの辺が優秀かと言うと、ワーゲンのバンに乗っていた青年はシンジョーと表記されていて、どっからそんな名前出て来たんだ?と思ってましたが、奴のゴーストラインに小さく書いてありました。そこから行くと課長爆破の際に車に乗せていた女性はオペ子となっていたので、やはりカナミでは無いと思います。
字幕ネタで行くと、最後のタカシが喋るシーン。ここではタカシがハッキリ喋ってる声と奥の方で微かに聞こえる声が重なっており、若干セリフが違います。字幕はよく聞こえない奥の声になっています。現実とNとのダブルシンクなのだとは思いますが、何故字幕は奥の声なのか?考察のヒントになりそうな気がします。
長々と纏りの無い稚拙な文章で申し訳ありません。
最終話で少佐が目を覚ましてからシマムラタカシのコードを抜こうとするまでは、さすがにバーチャルではないリアルな世界の話だと思われます。
その際、少佐はスマートガスが散布され核ミサイルが発射される前までが現実で、それ以降は夢の世界なのかとプリンに問い、プリンは概ねそうであると答えています。
ですので、11話までは一部の例外を除き概ねリアルな世界が描かれていると思います。
手にボタンが現れることがNになった証で、10話の途中にバトーの手にボタンが現れて以降、11話までに次々と9課のメンバーの手にボタンが現れました。
その辺りから、作中ではリアルとバーチャルの世界が混ざりあった映像が流れていたのだと考えています。
結果として、スマートガスは散布されたという解釈になります。
シマムラタカシは、スマートガスが沈む1時間前に米帝の主要な機関がNに設定されたと言及していましたが、この沈むという言葉について、私はガスが散布されてから地下施設にまで落ちていくことと解釈しました。
課長の車爆破シーンとカナミについての話は、私も最初はカナミだとは思いませんでしたが、あの際にいた女性は顔を過度にアップするなど明らかにモブキャラではないような描かれ方をしており、何か違和感を感じました。
3D描写ではキャラの見分けが難しいとも考えられますが、アニメであるのなら、もっとわかりやすくキャラを描くことも可能なのに、あえてカナミに似せて描いているとしか思えないので、制作者側の何らかの意図があるように思います。
ただ、『攻殻機動隊 SAC_2045』おいて、作中で何が起こったのかを突き止めることは重要ではないと思っています。
人によって考えがそれぞれあることこそが、記事内で書いた実世界がダブルシンクになっていることなので、作中で何が起きたかについて答えが出ないのが正解なのだと思います。
記事内で私が書いたことには穴があり、作中で起きていることにも穴となる部分あるはずです。
しかし『攻殻機動隊 SAC_2045』に限れば、それが正解なのだと私は解釈しています。
トグサが新東京の屋台のある場所に来たシーンは、私も最初に見たとき違和感を感じました。
人が全然いなかったところから突然現れたように見え、バーチャル世界の描写なのかと思ったのですが、その後、バトーたちがやってきたときも屋台の周辺に人がいることになっていたので、リアル世界の描写なのだと認識しました。
そのときは物語の結末を知らなかったので、3Dアニメだとモブキャラを描くのも大変なため極力人物を描かず、事前のシーンでは人がいなかったのかと思ったのですが、実際は何かを暗示したのかもしれません。
ひょっとしたら、この頃から視聴者の思考をダブルシンクにする作戦は進行していたのかもしれませんね。
考察を入れないと、見る側が納得する事が無い作品になった」のでしょうが
3Dになって、ネトフリになって
あの頃の様にはもう戻れないのかも知れないですよね
声の中の人々の「割り切り」含めてもそうですがね
SSSの時がピークでしたかも
まあ、もうネトフリも予算を出せないですよね。
荒巻さんの声も90代でしたし
時代ですね。
郷愁ですね。😅
今回の作品はかなり評価が分かれる事になるでしょうね。
ダブルシンクとは、このように私たちが生きてる事を説明する事が出来ないようにダブルシンクも同じ事なのかなと思う事にします。
今回の考察記事は参考になりました。
友達と色々と語り合おうと思います(笑)
評価が分かれることすらもダブルシンクなのかもしれませんね。
最終話が難解すぎてどうしようかと思いましたが、こちらの考察のお陰で本作品の真の面白さに気づくことが出来ました。
ファンの心情や作者の心理に関する考察においては感動さえ覚えました。
このページが一人でも多くの迷路にはまっている方々に届くことを祈っています。
ありがとうございました。
私も最終話が難解すぎてどうしようかと思いました。😅
答えは1つではないと思うので、人それぞれの答えを導き出してもらいたいと思います。
とてもわかりやすい説明ありがとうございました。
考察を読んでハッとさせられ、また、感動しました。
これからも何度も観ようと思います。
私もこの記事を書きながらハッとさせられたことが何度かありました。😲
N化はNirvana(解脱,涅槃)ではないでしょうか。
プリンが「解脱した状態で」と言っています。
涅槃(Nirvana)に至る解脱を、N化すると呼んだ。
このSeason2-12話の終末は「シン・エヴァンゲリオン」の影響を受けて、シナリオを再検討されたのでしょうか。それとも、もともとだったのか。
視聴者をも巻き込む、メタな”ダブルシンク”はエヴァで描かれた終末でもありました。
ところで、ダブルシンクはDouble Syncではなかったのですね。「Matrix」的な世界観であれば”Sync”のほうがふさわしく、Season2では「Matrix」の影響が色濃く出ていたように感じました。
私が追記しようとしていたことをコメントくださりありがとうございます!
エヴァンゲリオンに関することは追記しましたので、そちらをお読みください。
Nの解釈については1つでなく、それも一種のダブルシンクな状態なのだと思います。
今になって気づきましたが、シーズン1の最終回のサブタイトルが『NOSTALGIA / 全てがNになる。』ですので、やはりNの意味はNostalgiaの可能性が高いと思われます。
今回の”SAC 2045″をもって、事実上”攻殻機動隊”が最終作なんですよね。
今作品を見終わり、自分の中で一旦の消化が終わり、改めて、今作の意味を考えたとき、思い浮かぶのは「郷愁」です。
やはり、”NOSTALGIA “です。すっかりN化されてしまいました。
ところで、予定通りに”SAC 2045″が配信されたとして、2022年はいろいろ終わる年だったんですね。ある意味で「歴史の終わり」はスタートでもあったのですが。折しも、世界情勢を鑑みても。
数年後、新たな世界の流れから、神山健治さんが「攻殻機動隊」に相応しいテーマを見つけてくれるのを願っています。
『NOSTALGIA / 全てがNになる。』の本当の意味は、作中の全人類がNになることではなく、『攻殻機動隊 SAC_2045』を観た全ての視聴者がNになるという意味だったのかもしれませんね。
すばらしい考察ありがとうございました。自分も12話冒頭で一話飛ばしたかと思ってインデックスに戻りましたw見終わってもワケワカランだったのでマトリックスをパクり返して終わったのかーとしか思わなかったのですが、ちょっと考えてみようという気になりました。
9課の中でN化が最も早かったと思われるトグサは、何故核の発射を防ぎきれなかったという、自分にとって都合の良くないシーンを疑似体験させられてるのでしょう?あれはトグサのイメージではなく少佐やバトーのものなのでしょうか?
Nぽとは郷愁ウィルスに感染はしたけどN化しなかったケースのことなのでしょうか?
核の発射シーンは、N化によるダブルシンクの体験ではなく、シマムラタカシが意図的に作り出したバーチャル世界の映像なのだと思います。
ポストヒューマンの戦闘で、有りもしないも物を飛ばすシーンがあったかと思いますが、シマムラタカシはあのようにバーチャルな世界を他人に高レベルで体験させることが可能なようです。
シーズン2の10話の途中以降(バトーの手にボタンが現れて以降)は、リアルな映像とバーチャルな映像が作中入り乱れて描かれていたと認識しています。
作中にバーチャルな世界が描かれている可能性があるので、正直、何がリアルの描写だったのか視聴者的に判断がつきづらく、1つの答えは出ないのだと思います。
これも一種のダブルシンクなのかもしれません。
Nぽについては、N化が上手く作動しなかったり(ワーゲンの男?)、N化が解けたり(トグサ?)した人のことで、こういった人は101号室に連れていき強制的にN化するのだと思います。
考察非常に楽しく読ませて頂きました。
Nポについて自分の解釈を書かせてください。
Nポは恐らく「Npol」なのだと思います、これは小説1984に出てくる思想警察(Thinkpol)から作られた造語なのではないでしょうか。
1984の世界では平和省=軍隊のように名前と逆の活動をするものが多かったので、おそらくNポも「郷愁警察=郷愁に反する者」なのかなと思いました。
Nぽの元ネタについては、正直のところよくわからないですね。😭
今頃コメントごめんなさい。
”Nぽ”は恐らく、NullPointerException(通称”ぬるぽ”)コンピュータ用語で、例外(エラー)の中で有名なワードです。意味は「空の変数を参照した」なので、劇中では「郷愁(N)アプリがインストールされていない」という意味合いで使用されたのではないでしょうか。
このSAC_2045という作品自体「攻殻機動隊の続編が観たい」と望む心が生み出したNの世界なのかもね。
面白い考察ですね。😲
自分も攻殻機動隊に対する郷愁にかられている(郷愁ウイルスに感染している)意識があるので、N化しているのかもしれません。
新東京に300万人もの人が集まった?集められた?理由はなんですか?
このことは最初に書こうと思っていたのですが、記事を書いているうちに忘れてしまいました。😅
おそらく新東京には元から建設作業員などもいたのでしょうが、多くはシマムラタカシが郷愁ウイルスなどを使って集めたものと思われます。
目的は、第1に世界の人々をN化するための事前テストが考えられますが、それ以上に、数十億人単位の人をN化する際の処理を補うため、必要なデバイスとして集められた可能性が高いように感じます。
いくらポストヒューマンのシマムラタカシであっても、世界中の人を短期間でN化するのは大変な作業で、300万人の人と並列接続してから世界中の人をN化する作業に入ってのではないでしょうか?
『攻殻機動隊 SAC_2045』における世界の人口はわかりませんが、1人かつ短期間で世界中の人をN化するのは、ウイルスなどを用いたとしても出力的な限界を超えている気がします。
凄い考察です!
かなり早い段階で記事を公開しているようですが、観てすぐにこんな凄いことを思いついたのですか???
私が『攻殻機動隊 SAC_2045』のシーズン2を観はじめたのは24日の未明からで、かなり眠かったのですが続きが気になって一気に全部観てしまいました。
視聴後は死んだかのように眠り、目が覚めた後に最終話の意味がわからなすぎて普段は全く見ない考察系の記事を求めて色々と探したのですが、公開からの時間が浅かったのか一切見つからず仕方なく自分で考察をすることにします。
その後、記事で書いた結論に至り、これは形に残したほうがいいと思いブログに書くことにしました。
おそらくそれが24日の深夜から25日の未明ぐらいだったかと思います。
記事は25日の朝から書き始めたのですが、確認作業などに時間を費やし公開できたのは25日の夕方になってからでした。
とても興味深い考察ですね!面白かったです!
細かい疑問はまだ多いのですが、個人的には少佐はタカシのコードを抜かなかったと感じました。
これはあくまでも感覚的なことですが、映画ゴースト・イン・ザ・シェルでの人形使いとの融合による個としての進化、クゼと協力して難民達と共にネット世界に意識をシフトさせることを選択(これはタチコマたちのお陰で未遂ですが)等、少佐は昔から既存社会にあまり頓着しておらず、より良い環境、生命体に進化していくことを躊躇わない感性を持っていると感じていました。
そう思うと、ダブルシンク状態によって人間社会がメンタル的、インフラ的にも成長する事実を潰してしまうようなことはしないんじゃないかと感じました。
それを踏まえて、最後のセリフで「次の特異点を迎えたとき…」というのが、タカシの用意したN化を受け入れて、そこから更に人類は進化することを予感させるというラストなのではないかと思いました。
ただ、バトーが一人で背負い込むなって言っているのは、理想的な夢の中で穏やかに生きる人類の安らぎを奪った少佐の独善に対しての気遣いなのか?とも感じる…。
うーーーん…答えは永遠に出ないような終わり方!!
一人ひとりが違う感想を持つことを前提としているなんとも感慨深い作品に仕上がりましたね!面白かった!
全人類がN化した世界の考察については、別途記事を書くどうかか迷っているところです。
頭の中で既に考えはまとまっているのですが、さして面白い内容でもないので公開するべきものなのか悩み中となっています。
書いてみたら面白くなることもあるので、書くだけ書いて公開の判断をしたいと思います。
全人類がN化した世界の考察を書きました。
https://manga-data.com/consideration-8/
少佐がコードを抜いたかどうかの考察も、そこでしています。
とても面白い考察を拝見いたしました、とても素晴らしいです。
管理人さんの丁寧な考察に影響を受けまして僕も模倣犯的に書き込ませて頂きます。
作中、nostalgiaの単語のみ出てくるのでNとはからの事かと思いましたが深読みすればする程「ホラ、考える事って楽しいでしょ?」と言わんばかりにアイデアが出てきます。
最終話少佐の「Nとは何だ?」というプリンへの投げかけに対して敢えて単語の明言を避けていたように思えます。これは複数の単語の総称としてのNであり色んな状態が重なっている事の暗示ではないかと思いました。
タカシの思想である全員を摩擦係数ゼロの世界へという「ニュートラル」な考え方。
そしてタカシと少佐の会話で電脳化していない人たちのN化も進んでいるという点から単なる郷愁ウイルスではなく、むしろ技術的(思想的)特異点を新たな常識へと昇華させるような行為にも思えてきますね。遅かれ早かれ全てはNになるよと。
そこで過去に世界の常識を覆した人物は誰かと思いを巡らせると「ニュートン」が出てきました。おやコレもNかと。
そして大体の人が感じる「核ミサイルが発射されたのか」「タカシのコードは引き抜かれたのか」「どこからがダブルシンク状態になったのか」など脚本段階ではハッキリしているものをどこから境界線を曖昧にしようかなど逆算的に制作された印象を強く受けました。
そういった「答えが用意されていながら視聴者にそれを探させる」見方をすると初代劇場版から非常に日本人的で、超高度かつ緻密な「職人気質」なアニメである事に変わりはないという確信を得ました。
決して「解釈を視聴者に委ねる」などという制作側の怠慢に甘んじる事なくむしろ「正解があるから正しく理解しながら観てね」という強い意志を感じます。
そんな製作陣と視聴者の追いかけっこの関係性はゲームでもアニメでもそうですがこういった考察サイトや攻略系サイトありきの世の中になった今、ひとつの(或いはそれぞれの)正解に向かって全員で突き進んでゆかせるのがエンターテイメントになってきたようにも思います。
飛躍こそしてしまいましたが攻殻機動隊というプロジェクトは現代社会の世相を反映させながら常に新しい形で視聴者を楽しませる、まさに究極のエンターテイメントですね。
『攻殻機動隊 SAC_2045』は、見終わった瞬間と見終って様々な考えを巡らせた後とでは評価が大きく変わる作品と言えますね。
見れば見るほど面白いアニメを噛めば噛むほど味が出るスルメに例えて『スルメアニメ』などと言いますが、『攻殻機動隊 SAC_2045』は考えれば考えるほど楽しい特殊なスルメアニメなのかもしれません。
アニメと現実の境界をなくすという考察がすごく面白かったです。
テレビ放送の頃からそういう描き方をしていたエヴァは相当時代を先取りしていたのだろうな。
エヴァンゲリオン(旧エヴァ)に関して『時代が早すぎた』という表現は、かなり良い見方をした表現方法になると思います。
エヴァンゲリオンの原作者である庵野秀明さんは、インタビューかテレビやラジオ出演時の発言かは忘れましたが、TV版エヴァンゲリオンのラストシーンは、自身を含めいつまで経ってもアニメの世界から抜け出せない人間に対するアンチテーゼだと発言していました。
しかしテレビ版エヴァンゲリオンは、夕方の6時台に放送された子供向けロボットアニメなのです。(正確にはロボットではないが)
実際にTV版のエヴァンゲリオンは、絵柄も終盤を除くストーリー展開も明らかに子供向けのものでした。
そんな子供向けのアニメで、アニメと現実の境界線をなくすような表現手法を用いることは、『時代が早すぎた』というよりは、作者の『感覚がズレていた』と言ったほうが正しい気もしてしまいます。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が高い評価を得た理由も、時代が追いついたという側面と共に、観る人の年齢層が上がったという単純な理由も強かったように感じます。
一方、攻殻機動隊は原作の時点から大人向けの難しい作品で、アニメ作品もその時代に沿った難しい問題をテーマとして取り上げていました。
そういった意味では、今回のような難しい表現を行う作品としてより適していたと思います。
アニメと見比べながら何度も読ませていただいております。
お陰様で、作中で起きた出来事ぐらいはなんとか自分の頭でも整理できそうでした。
核心部分も勿論ですが、「終盤の攻防=N化による疑似体験」ではなく、「タカシによるバーチャル映像」という説のお陰で、いろいろとしっくりきました。
プリンとタカシのセリフから、「ミサイルは発射されなかったが、ガスは実際に撒かれた」として、スタンをはじめ、地上で倒れた9課メンバーがなぜガスから生き残れたのか、疑問に思っていたのですが、管理人さんの説で、我々視聴者が見たガスはタカシのバーチャル映像であり、9課は実際のガスが撒かれる前に地下のカプセルに避難させられていた、と考えれることで整理できました。
(気のせいかもしれませんが、明言されていた「残り3時間」というタイムリミットに対して、あまりにも散布のタイミングが早かったような気もしたので…)
核心部分はすでに管理人さんが分かりやすくまとめてくださっているので、以下のコメントは蛇足かと思いますが、自分は終盤のタカシのセリフの中の、「米帝の”主要機関”は〜」という表現に少し引っかかりを覚えました。
タカシの言う通り、「ゴーストを持たない存在はダブルシンクできない」とすると、ダブルシンクは基本的に人類にとっての現象ということになると思いますが、それなならば「米帝の”主要都市”は」とか「人口の大部分は」といった表現の方が適当なように思います。
このことから、「ダブルシンク=N化」を意味しているのは間違いなさそうですが、Nは「人類がダブルシンクを可能にする社会構造」という意味も含んだ、もうちょっと広い意味を持った言葉なのかな、と考えたところです。
(数学で言う、「N(化された社会)」という大きな集合の中に「人類のダブルシンク」が含まれる感じ?)
現実でも、「資本主義」や「民主主義」が、「資本主義(民主主義)的な社会構造」と「資本主義(民主主義)的な思想・信条を持った人」の両方を表すことができますが、それに近い言葉なのかもしれませんね。
(「ひょっとして、お前も”N”なのか?」は、「ひょっとして、お前も”アカ”なのか?」みたいな表現なのかも…笑)
また、核心部分とはずれた周辺の話になりますが、上記以外にも、
○ポスト・ヒューマンの行動原理や目的は、統一的なものなのか。それとも個々人で別々なのか
→核ミサイルの発射、難民を利用した政治家の殴殺、郷愁ウイルスによるN化…
○第1シーズンでシマムラ タカシが一度、生家に戻ったのはなぜか
→手紙(と毛布?)は少佐が置いたものだったようなので
○トグサが見た16年前の幻影は何なのか
○トグサの幻影にミズカネ スズカがいたのはなぜなのか
○トグサは2ヶ月間どのように生き残ったのか
→食事などはどうしてた?
○米帝は捕獲したヤグチ等々の対象を観察していた時点で、睡眠の特徴を見つけられていたのではないのか
○プリンがポスト・ヒューマンになったとして、人格に変調をきたしていないのはなぜか
→高熱を出していなかったので、ポスト・ヒューマン化が不完全だった?
○1A84がプリンに言っていた、「君の体はすでに使用中のようだ」はどういう意味か
などなど、気になることが盛沢山なのですが、やっぱり自分は、
○東京に自○したはずのカナミが存在していたのはなぜなのか
→クラスメートの反応的に、実在はしてる?
○カナミはポスト・ヒューマンなのか
が気になって仕方ないですね(笑)
興味のあるものだけでも構わないので、この辺について、いつか管理人さんのお考えを伺ってみたいと思いました。
長文失礼いたしました。
『米帝の主要な機関がNに設定された』というセリフは自分もかなり違和感がありました。
N(ダブルシンク)は人に対してするものじゃないのかとも思いましたし、“Nに設定”という言い回しも引っ掛かるものありました。
ただ、こういった疑問に対し作中に答えを求めても、明確な答えはないのだと思います。
視聴者によっていろんな考え方があることが、現実世界がダブルシンクになっている状況の一種なのだと思っています。
その他の細かい質問については、答えられそうなものだけ答えます。
【トグサが見た16年前の幻影は何なのか】
トグサが最初に発症したN化はまだ初期段階のもので完成しておらず、本来のダブルシンクである“自分にとって心地のよい夢”ではないものを見ているのかもしれません。
【トグサの幻影にミズカネスズカがいたのはなぜなのか】
過去にトグサと出会っていた、トグサがミズカネスズカの資料を読んでいた、ポストヒューマンであるミズカネスズカはN化した人間の夢の世界に介入できるなど様々な理由が考えられます。
【トグサは2ヶ月間どのように生き残ったのか】
N化(ダブルシンク)は思考的に夢の世界にいても生活は普通にするのが基本ですから、トグサも生きる上での生活は普通にしていたものと思われます。
【プリンがポスト・ヒューマンになったとして、人格に変調をきたしていないのはなぜか】
閉じ込められた部屋から出ていくときはプリンはポストヒューマンの雰囲気そのものでしたが、課長のSPを撃った後は普通の状態になっていました。
その後の話で、SPはウイルスに感染し課長を撃とうとしたことが判明しています。
つまり、プリンは課長を守るという9課の一員として正しい行動しかしていないわけです。
イシカワとボーマの目を盗んで出ていった行動も、自身の言うことを信じてもらえないという状況を考えれば仕方のない行動に見えます。
以上のことから、プリンがポストヒューマンだったという話は演出上のミスリードなのだと思います。
【東京に自○したはずのカナミが存在していたのはなぜなのか】
【カナミはポスト・ヒューマンなのか】
これは他のコメントに対する返答にも書いていますが、カナミは姿を消したり超人的な身体能力を見せているので、実在する人物ではないと思います。
同じ場所にいた女子高生と思われる人たちは、カナミの姿が見えていないように思えたのですが・・・
>以上のことから、プリンがポストヒューマンだったという話は演出上のミスリードなのだと思います。
プリンの能力面についてはどう考えられますでしょうか。
ポストヒューマンがジャックしている飛行機の制御を取り返す、バトーも感知できない、ポストヒューマンに枝をつけられていることに薄々感知する。
その他にも多くの、タダの優秀な人間では説明つかない点が多いと思われるのですが。
エヴァファンの私には、全人類のN化?ダブルシンク?がどうしても人類補完計画に思えてしまいます。
SAC2045にエヴァの影響ってないのですかね?
全くないこともないと思います。
裸だった江崎プリンがフォルクスワーゲンのバンで着た服は、どう見てもプラグスーツなので、少なくともオマージュやリスペクトの類はしているものと想定されます。
エヴァンゲリオンの最終章である『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』と同時期に公開される作品として、意識をしていたのではないでしょうか?
シーズン1で分からないことがあります。シマムラタカシの母親はどうして寿司をあんなに上手く作れるのですか?
最近はスーパーなどで手軽に美味しい海苔巻きが買えるので、作るのに手間と技術を要する海苔巻きを家庭で作る機会は減っていますが、一昔前の日本ではどの家庭でも海苔巻きを作っていました。
これも郷愁ですね。😅
かねてよりの攻殻機動隊シリーズの大ファンです。
Netflix版も楽しんでいましたが最終話の難解さに驚きましたが、管理人さんの神山さんは観客も含めnにしたかったのではないかという推察に納得がいきました。
こんな高度な内容ではsacシリーズの、かなーりのファンではないとついてこれないと思うのでNetflixさんはよくこの内容でokしたなとは思いますが、
管理人さんとの皆さんのやりとりを見ていてラッフィングマンルームのやり取りのように見え、シマムラタカシはversionupした笑い男のように思えました。
そんなノスタルジック(N)な気持ちにさせてくれた本作品と管理人さんに感謝です。
S.A.C.シリーズの放送は、基本的に全て有料会員向けの放送(スカパー、Netflix)なので、多少難しいことも描けるのでしょうね。
今まで以上に難解なラストシーンが描けるようになったのは、記事内(『攻殻機動隊 SAC_2045』の最終話が2022年に公開された意味)で書いたように時代背景的なもので、まさに機が熟したと思われます。
私はセリフを聞き逃さないよう、日本語音声に日本語字幕を入れて視聴しました。通常Netflixの日本語の作品では音声と日本語字幕は完全に一致しています。が、2045では、12話後半のシマムラタカシと少佐の会話のうち、タカシのセリフだけ、日本語音声と日本語字幕が違うんです。少佐のセリフは一致しているのに、一人称すら音声=私、字幕=ボクですし、音声=感謝します、米帝、字幕=ありがとうございました、アメリカ、など、ことごとく違っており、タイミングもややずれています。結線されたタカシの恐ろしい状態と相まって、ものすごく不気味で気持ち悪いです。よく聞くと、音声も二重に聞こえている時があり、そちらは字幕と一致してたりします。同時通訳を聞いているような感じ?
神山監督がウッカリ字幕を間違えたとも思えませんので、意図的な演出ではないかと思います。だとしたら芸が細かすぎる!電脳による通信と言葉による会話のズレを現しているのかと考えましたが、管理人さんのご意見を拝聴できると嬉しいです。
自分の思いを伝える作業として、俗にいう言語(日本語や英語など)で会話をするのは非効率的と言われています。
ポストヒューマンが会話をしないのもそのためでしょう。
『攻殻機動隊 SAC_2045』のラストシーンでは、シマムラタカシがポストヒューマンとして初めて会話を行いますが、膨大な処理を同時に行っている脳内の思考を言語として出力することに多少の障害が発生しているのかもしれません。
あるいは、視聴者をダブルシンクにする暗示のようにも思えます。
考察のレベル、考察に至るまでの早さ、質問コメントに対する的確な答え…
あなた、ポストヒューマンですね。
自分がポストヒューマンになったという意識はないですが、そもそもポストヒューマンは自身がポストヒューマンになったことに気付くものなのか?
また気付くとして、どのタイミングで気付くのか?
謎は深まるばかりです。
まあ、ポストヒューマンなら『攻殻機動隊 SAC_2045』の感想をブログに(しかも日本語で)書かず、ネットに繋がっているスマホやパソコンに直接アップロードさせるぐらいのことはしそうですよね。
しかも翻訳ソフトを使ってあらゆる言語で世界中の人のバラ撒きそうです。
以上のことから判断するに、自分はポストヒューマンではないでしょう。😅
ちなみに昨日発熱はありましたよ。😲
自分も管理人さんがポストヒューマン説に1票入れます!
発熱があったと言っているので近い将来にポストヒューマン化するのではないでしょうか?w
非常に面白かった。
ここで私なりの考察を一つ。
課長を車に乗せたのはカナミだと思う。
爆破することで一時的にでも少佐と課長の通信を妨げる必要があった。首相と少佐を通信させるために。そのタイミングでタカシはフィルターを解除した。
オンラインになった少佐に枝をつけて、最高機密回線にNウィルスを流すことに成功して、米帝に蔓延。おそらく、その枝を付けた後ら辺からの戦いの描画はほぼバーチャル世界。ただ、ボーマーだけはリアル。プリンはゴーストがなくてN化出来なかったから、味方にするために物理的に近づく必要があったため。ボーマーしばらくは車椅子生活。ドンマイ。
発射ボタンが見えるようになっていったのはNウイルスに感染していったのを分かりやすく表している気がする。
サイトーはボタンの描写がなかったけど、おそらくその前から、ウイルス感染してたんだなーって想像する。前話のNネットワーク経由で衛星接続して狙撃した辺りかな。
11話の色々な戦いはほぼバーチャルで、現実は、みんな自分の身体が勝手に動いてカプセルに入っていったんだろうなーって想像すると、ちょっとクスッとした。
一個難しいのは、少佐がN化してるかどうか。おそらくNウイルスには感染してるけど、ロマンチストだから想像と現実の境界が曖昧だから、どっちも行き来できるって感じなんだろうなー。
実は11話のバーチャル戦闘中も冷静になったら、現実じゃないのに気付けたのかも。
え?なんで、カプセルの前にいるんだ?的なw
あー、ダブルシンク出来るようになりてー
課長の車が爆破されるシーンにいた女性は私もカナミかのように見えましたが、クレジット上はオペ子というオペレーターの女性だそうです。(ここのコメント欄で教わりました)
ただ、カナミもオペ子も前髪のあるポニーテルにメガネで、髪の色や目の色も大きな違いはありません。
アニメ作品では、髪型や髪色を用い視聴者にわかりやすいキャラクターの分け方をするのが通例で、髪型に加えメガネをしていることまで一緒なら普通は同一人物と見なすはずです。
少なくともカナミとオペ子を似せて描いていることは間違いないので、あのシーンには何らかの意図があると思われます。
課長の車が爆破されたこと自体、シマムラタカシが作り上げたバーチャル世界の出来事なのかもしれません。
考察、とても感動しました。
何度も読ませて頂いてます!
そして、文章が上手く書けないのですが、思った通りに書きます。
雑な文で申し訳ありません。
課長の車爆破シーンは全くわからずふわふわしております。あくまでわたし的想像のところですが、
課長が移動する前の総理との会話を誰かが覗いていると思っているのですが、あれはバトーの目を盗んでシマムラカタシが覗いていたのかなと思っています。
次のシーンで、バトーのカットから始まりバトーが”ハッ!”とするような首の動きがあったのでなんとなくそう思ってます。
ただバトーはその後のセリフを聞いていても課長がやられたことに驚いているので、バトーは目を盗まれているとこにも気づいておらず、
最終回の少佐が見ていた新聞記事同様にリアタイで上書き保存されているのかなと思いました。
車に立っていたカナミは本当は9課のオペレーターで、シマムラカタシが乗っ取っていた?と思いました。
これもまた課長が車に乗った瞬間カナミ(オペレーター)が”ハッ!”と息をしたカットが一瞬あったので、カナミに見える何かだなと思いました。
シマムラカタシのここでの目的は少佐が自閉モード解除、アクティブ化で総理と連絡取る瞬間を狙いたかったのかと思うので、総理との直接会わせたくなかったのでもなく、課長を殺そうとも思ってなく、9課メンバーに「課長の身に何かあった」と思わせたいがためのシーンなのかなと思いました。
課長が乗る車の後ろに光学迷彩のタチコマがいたと思うのですが、もしかしたら既にN化しているバトーが用意した?思考と行動のダブルシンク?なんて思ったりしましたw。
思考はNに賛同し、もうサンセット計画のような悲しいことが起こらない世界ならNへ…と思いながらも9課のメンバーとしての正義感で行動までは思考に捉われていない、みたいなことを思って見ていました。
またはシマムラカタシがタチコマを用意したのかなとも思っています。身の危険を感じた課長も自閉モードや非アクティブにすると思ったので。どちらにしてもシマムラカタシの狙いは達成できたのかなと思ったりしました。
課長の車が爆破するシーンでカナミ似のオペ子がハッとするシーンは、タチコマの存在に気付たことへの示唆にも思えるのですが、なぜあそこまでカナミに似せて描いたのかについては疑問が残ります。
わざわざ顔をアップにしてまでカナミに似ている存在を視聴者に見せているので確実に意味はあるはずで、課長への襲撃自体がバーチャルの出来事である示唆なのかもしれません。
Nについて、NOSTALGIAがメインだと思いますが、他の方も書かれているように、いくつかの意味も付加されているように思います。
自分が思ったのは、「すべてがNになる」の元ネタとして、「すべてがFになる」という小説(ドラマ化もされてた)があります。元ネタのネタバレになってしまいますが、「F」とは16進数の16を意味しています。そして、今作は「N」なのですが、同じように数学的、プログラミング的な意味合いで見ると、「N」とは自然数であったり、”ある数”を表す変数として使われます。
つまり、「N」は色々なものが入れられる入れ物であるということです。
全員を摩擦係数ゼロの世界にするためには、人それぞれ必要とするものが変わるはずなので、「N」には、その人が必要とする何かを収める器というような意味も付加されていると思いました。
裏付けとして、「Nぽ」があります。プログライミング用語で「ぬるぽ」というのがあります。
「ぬるぽ」とは「Null Pointer Exception」の略で、変数に実体がないために起こるエラーを意味しています。
「Nぽ」とは、郷愁ウイルスによって埋まるはずの、摩擦係数ゼロにするための何かが埋まってないエラー状態を表しているように思いました。
「Nぽ」が連れていかれる101号室も何かプログラミング的な意味ありそうなので、ちょっと調べてみました。HTTP(ネットの通信規則)のステータスコードの101が「リクエストに対してプロトコルの切替えを要求」で、なんとなくニュアンス近い感じですが、関連しているかは定かではありません。
『すべてがFになる』は知識が全くないのでわかりませんが、101号室は『攻殻機動隊 SAC_2045』の雛形にもなっている小説『1984年』が元ネタだそうです。
『1984年』の刊行が1949年だそうですから、インターネット用語との関連は薄いのかもしれません。
いずれにせよ、『攻殻機動隊 SAC_2045』には様々なエッセンスが組み込まれて形になったと思われます。
『攻殻機動隊 SAC_2045』というよりは、神山健治さんの中に過去の作品から影響を受けた様々な思想や発想があり、攻殻機動隊という作品の中で表現しているのだと思います。
わたしはSAC2045を見て攻殻熱が爆裂に上がってしまい、過去の作品を見返している最中です。(;^_^A
これで攻殻は終わりなんでしょうかね。寂しいです。(T_T)
面白い考察をありがとうございました!
自分は攻殻熱を少し冷まそうと思い『となりのトトロ』を観ました。😅
SAC_2045作った制作陣も凄いけど、このブログ書いた人も凄いわ。
こういう人の頭の中ってどうなっているのだろうか?
有線で覗いてみたいなw
有線で繋がれるのは初体験ですので優しくお願いしますw
私も『攻殻機動隊 SAC_2045』のシーズン2を見始めたのは高齢の両親を温泉旅行に連れて行った夜。家族が早くに床についたのでヒマで見初めてあっという間に12話まで視聴。翌日からダブルシンク(笑)となりました。
見終わった直後の感想はエヴァンゲリオンTV版最終話の戸惑いと混乱に似て、このブログに辿り着きちょっと落ち着いてきました。
書き始めるとキリがなくなりそうなので一つだけ。
12話のラストでバトーと再会の時があればと決めた合言葉。「1A84」ポストヒューマンのプログラム。
そして少佐のセリフ「ネットは広大だわ」
これとシンクロするのが押井守監督「攻殻機動隊 GOAST IN THE SHELL」のラストシーン。バトーが少佐の脳核を救出して少女のボディに移植してからの最後のセリフ。
「ネットは広大だわ」
その前にバトーと約束した再会の時の合言葉「2051」。これも人形使いのプログラム。
どちらの作品もバトーと少佐は別れて新たな世界にダイブするかの様な描写。
『攻殻機動隊 SAC_2045』の場合は文字通りダイブしてネットの世界に飲み込まれて行く様に見えました。オープニングアニメの様に、、
おそらくシマムラタカシのプラグを抜かなかったダブルシンクの世界に少佐もバトーも存在している気がします。
サスティナブルウォーの世界もロシア/ウクライナ戦争の世界を予感させてゾッとする今日この頃です、
S.A.C.シリーズは原作の攻殻機動隊及び原作ベースの劇場版第1作に比べるとライトなストーリー展開でしたが(あくまで比べればだが)、『攻殻機動隊 SAC_2045』は原作の壮大さに追いついた感があり、あのラストシーンに繋がった気がしますね。
2045のラストが難しいとか説明不足とか感じる人は、笑い男事件も人形遣い事件も個別の11人も正しく理解出来てない
わざわざ考察記事作った挙句意味が分かりませんでしたってのは、考察出来てないってことだし理解力が足りてない証拠
それを作品のせいにする記事作るのはどうかと思う
アンチならアンチで堂々とディスればいいのに、さも攻殻機動隊のファンですみたいに言っておきながらピースが埋まってないとか、もう少し勉強してから記事にして欲しいですね
貴重な意見をいただき誠にありがとうございます!😊
考察楽しく拝見させていただきました。
シン・エヴァとの類似点について述べられていましたが、さらに気になる類似の作品があるので紹介させてください。
・ハーモニー
2008年発売の小説でアニメ映画にもなっているSF作品。
オチは本作とほぼ同じ。
・インセプション
ノーラン監督による映画。
最後のシーンが現実なのかNの世界(夢)なのかわからないまま終わる。
正直なところ本作は上記の映画をごちゃまぜにしたような印象でした。
SSSの時は少佐に事実を伏せる形(本人は薄々気付いていたが)で終了したと思うのですが、それがあったからこそ今回は反対に旧メンバーで少佐のみが事実を知る終わり方をとったのですかね
大変おもしろい考察でした。ダブルシンクの考えは、プリンが話していたように、「それぞれが違うゲームを楽しんでいるような」という所で少し納得できました。
今回の作品では、電脳による自由な思考世界(各々でゲームを遊んでいる世界)とゴーストが揺れ動く世界がパラレルとして稼働していくように感じました。通常では気付けない、そのパラレルな世界線の違和感に、少佐は気付き、目覚めた。AIによる単一化された思考(ここでいう郷愁)が与えられると、個々のゴーストが溶け出して、個を維持できなくなってくるんですかね。すると統一された思考はAIが管理する世界に、何不自由なく生き続ける。ゴーストで個を維持していた人が、ゴーストの溶け出しにより個が維持できなくなり、個の消失が生じる。そして集合体としての個で生きる世界となる??
ふと、攻殻機動隊~S.A.C第12話 の映画監督の掴んだ人を離さない映画の、より推考が進み、どちらも生きる世界の実現化と感じました。
難しい解釈ですが、コメントせずにいられず、まとまりのないコメントを残してしまいました。今回の考察も、アニメも最高でした✧\(>o<)ノ✧
突飛な発想ですが、この作品の視点が草薙少佐の視点で描かれているとすると、シーズン1エピソード5神々の贈り物で、パトリックヒュージと有線した時に草薙少佐には1A84がインストールされていると考えられます。
以降の物語は全て草薙少佐の視点から人類がNになっていく過程が描かれている感じがしました。
そして、物語が進むにつれ、Nになっている人が徐々に思考が溶け合い、その人の願望の視点が草薙少佐の視点として描かれると思います。
途中にでてくるユズ、カナミは既に死んでいるのに、生きている描写があるのはシマムラタカシの願望の世界が影響されていると思います。
また、課長も爆破されましたが、そのような願望と生きてほしい願望の2つの視点が投影されたのではないでしょうか。
現実と虚構(Nの摩擦の無い世界)が混ざっていく途中、Nになってない人は101号室、1984の「拷問、洗脳部屋」、おそらくあの地下にあるカプセルにいれてNにしていたと考えられます。
少佐とプリンにNが効かないのは、既にNだからかと。
シーズン2で少佐は、思考迷路と思ったけれど実は違っていたことに気が付いたので、ラストシーンでは、攻殻機動隊のテーマみたいなセリフですが「ネットは広大だ(全人類の溶け合う世界)」といって抜け道を探しに出たのではないでしょうか。
1A84はアプリの名前なので、解除しに行ったのかもしれません。
1984は「テレスクリーン」と呼ばれる装置で党が支配する映像のみを市民は世界を見ていました
つまり、我々視聴者と同じ視点だったのかと思います。
人類はほぼ1A84にやられましたが、一部の電脳化をしていない人と、気づいた少佐は抜ける道を探すのかもしれませんね。
NはNineteen Eighty-Four(1984)とnostalgia(郷愁)とWebアニメのNETFLIXのトリプルミーニングかと思いました。
私は職業柄、「N」は Natural Number だと思い込んでいました。
数式に出てくるアレです。
乗じれば無限大に元の数を超える様な感覚です。
それと、「Netflix」のNだとも思いました。いわゆる宣伝です。
あとは「江崎プリン」。江崎グリコの「プッチンプリン」なのでしょうけど、
個人的にスポンサー料とか貰えてたりするのかな?
とにかく、攻殻機動隊は私にとって最高のコンテンツです♪
ボーマの車椅子は普通に少佐がカプセルで起きる前の描写ありますよ
劇場版の最後の人間を見に行きました。
もしもアニメ版と同じ時空なのであれば、SACシリーズは完全に完結してしまったと思います。
アニメ版は3回見ても意味不明で、ここの考察を読んでも正直良くわかりませんでした。
しかし、今回の劇場版で全ての謎が回収され、アニメで伝えたいことのアンサーもよりわかりやすく伝わりました。
ある意味では原点回帰な展開だと思いました。
ネタバレは控えておきますが、ぜひ今公開してる劇場版の考察もお願いしたいです。