『攻殻機動隊 SAC_2045』の最終回は、草薙素子(以下、少佐)と江崎プリン(以下、プリン)以外の全人類が、N化という二重思考(ダブルシンク)に入る直前まで話が進んでいきます。
ダブルシンクになった人間は、実生活をしながら思考的には自分にとって心地のよい夢を見ているような状態を常に保っているそうです。
最終回では、少佐がポストヒューマンであるシマムラタカシが作り上げた全世界のN化を解くか解かざるかを迫られていました。(シマムラタカシもN化しない1人と思われる)
シマムラタカシに繋がっているコード(プラグ)を抜けばN化が解除、抜かなければ世界のN化は維持されるというわけです。
しかし、実際にコードを抜いたかどうか明確には描かれず、判断は視聴者に委ねられています。
ということで、実際に全人類がN化したらどうなるのかを少し考えてみたいと思います。
世界中の人がダブルシンクになった際に感じる最初の疑問は、人類が新しいものを発明したり開発したりする意欲をなくすのではないかということです。
開発などといった行動の原理は、向上心であったり他人に負けたくないと思う競争心などからくるものと思われ、日常の生活をしているだけで精神的に満足してしまっているダブルシンクの状態では、こういった類の感情を極めて抱きづらくなると考えられます。
開発欲をなくした人類の住む世界では、当然のことながら科学の発展は見込めないでしょう。
科学的発展がなくなっても、現状(『SAC_2045』における2045年)の科学力があれば高度な生活レベルの持続は可能と思う人も多いでしょうが、それは大きな間違いです。
エネルギー政策1つをとってみても、科学の力で新しい技術を開発してこそ初めて維持が可能となります。
例えば、地下資源の枯渇問題を解決するには科学技術の発展が不可欠であり、地下資源が枯渇したら、当然のことながら現在のような高度な文明を維持できなくなるわけです。
全人類がダブルシンクになった際にもっと問題になりそうなことが、恋愛感情に関する問題です。
人を好きになるという感情も、平常心を保ち思考的に満足してしまっているダブルシンクの状態では、なかなか湧き出てこない可能性が高いと思われます。
寂しくて誰かと一緒にいたいとか、恋敵に勝ちたいなどという恋愛に関する感情は平常心とは別のものです。
他人を好きになって胸がいっぱいになっている状況は、どう考えても平常ではありません。
人類から恋愛感情がなくなれば、子孫の繁栄に大きな影響を与えることは間違いないわけで、ダブルシンクは人類社会の継続的発展に極めて危うい状況を生じさせる可能性も考えられます。
以上のように、世界中の人をダブルシンクにすることには不備がありすぎるのです。
世界のN化を実行したシマムラタカシは、ポストヒューマンといえども現役の中学生であり、様々な部分で発想に幼稚な部分があったと個人的には思います。
シマムラタカシは過去に生涯拭い去れないような辛い経験をしているため、人間生活におけるマイナス面を極端に削った世界を作りたかったものと思われますが、現実には負の感情が人類の成長にとって大きなエネルギーになることも多々あるわけです。
結局、全ての人間をダブルシンクにするという世界は、人類社会におけるマイナス面を解決したものの、人類の持つはずのプラス面をもなくしてしまったように感じます。
シマムラタカシの境遇の辛さはプリンと似ていますが、プリンにはバトーという存在がおり、一緒にはいなくても心の支えになっていました。
一方のシマムラタカシにはバトーのような存在はおらず、空挺さんに貰った小説『1984年』が心の支えで、思想だけが膨らみ現実離れした世界を構築するに至った気がします。
『攻殻機動隊 SAC_2045』の最終場面で少佐は、人類が次に特異点を迎えるときは地球を飛び出し宇宙まで広がっていくと発言しています。
しかし全人類がダブルシンクしている世界では、上記したように科学発展も見込めず人類の存続すらも怪しいわけですから、人が宇宙にまで広がっていくとは到底思えません。
ここから導き出される考察は、少佐はシマムラタカシからコードを抜き世界のN化を解いたという結論です。
人類が宇宙にまで広がるという発想は、世界のN化を解き人々が正常な状態になってこそ生まれるものだと思います。
やはりダブルシンクの状況より、問題はあっても通常の状況こそが人類にとって正解の世界なのだと私は思いますが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?
コメント
確かにN化している人って夢うつろに生きてそうな感じがして難しい宇宙開発とかしなそうですよね。
自分はもともとコードを抜いていない派でしたが、この機会にコードを抜いてる派に転向しようと思います。
プリンはN化している人のことを解脱している感じと言っていましたが、解脱とは(細かい宗教的な概念は省くとして)悟りを開き煩悩を捨てた人のことを指すと思います。
全人類が解脱し煩悩を捨ててしまった世界では、技術的・科学的な発展が起こらないと私はどうしても思えてしまうのです。
技術的・科学的な発展は基本的に便利さの追求であり、人が楽をすることに繋がります。
自分は宗教家では仏教徒でもないので明確にはわかりませんが、楽をすることは煩悩の1つなのではないでしょうか?
そう考えた場合、全人類がN化した世界では宇宙開発が進まない気がしてしまい、少佐が最後に言った『この星を飛び出す』という台詞が引っかかってくるわけです。
以上のことから、少佐はコードを抜いたと判断しています。
引き抜いてない世界もあると思いますね。
東京復興計画は順調に進んでますし。ラストは電脳描写でしょうが。N化っていうのはAIが考えた人類繁栄の為の行動と利益調整システムを引き継いでいるので、人類が現実に対応できずに不幸になるという選択はしないものと思います。思い込みと現実を上手く分けているのが二重思考なので。
私の『攻殻機動隊 SAC_2045』に対する基本的な考えは、視聴者をダブルシンクにするといものなので、当然コードを抜いた世界もあるでしょう。(難解過ぎる攻殻機動隊SAC_2045の最終回を考察+全体の感想)
ただ、行動と思考がズレているダブルシンクの状態で、人々が恋愛をし子供を作るイメージが私にはどうしても沸かないのです。
そして私の考えが当たっていたとしても、ロマンティストな少佐がどのような選択をするかはわかりませんので、結局、あのラストシーンについて断定するようなことはできないのかと思います。
「コード1a84。私たちがこの時代にいたことを忘れないで」
はN化が進んでそんな過程や邪魔するものなど無かった世界になってしまうことも暗示できます。この場合融合するのは素子ではなく、バトーたちや人類。又、シマムラのジャケットを着ていることから逆に少佐が1a84を取り込み、変質していくという暗示の可能性もあります。その場合はコードを抜いた結果でしょう。
ダブルシンクという人類の新たな可能性に託すこともロマンを感じますし、人類の不確実性に未来を託すことにもロマンは感じるので、ロマンティストの少佐が、どちらの未来を選んだか判断が付きませんね。
N化している方が余計な議論とか対立がなくて生産や開発が早く進むんじゃないですか?
もし人類の歴史に戦争が一切なかったら、おそらく現在ほど科学文明は進まなかったことでしょう。
鉄器、火薬、航空機、原子力、いずれも戦争があったが故に進んだ科学文明と言えます。
宇宙科学に関する開発も、アメリカとソ連の冷戦という対立から発展していきました。
そして、全人類がN化している世界では戦争や犯罪は起こらないと考えられます。
他人と肩をぶつけて本来ならイライラする状況でも、ダブルシンクの状態では行動と思考がズレて落ち着いているので、全人類がN化した世界では無駄な争いは起こらないと考えられます。
つまり、少佐がコードを抜かなかった世界では、戦争や犯罪などは起こらないと考えられるのです。
そんな世界で科学文明が進んでいくかは、疑問を感じざるを得ません。
結局、全人類がN化した世界とは、現状の幸福を維持する世界なのだと思います。
プリンの為にも少佐はコードを抜いたのでは?
ゴーストが無い人格複製者というだけで
現実世界の九課とバトーの元へいけない、
または現実の九課とバトーの元へ行けたとしても彼らが半分仮想世界にいる状態で真には一緒に過ごせないし自身も彼らのように幸せな仮想現実に行けない。
こうした涅槃へ解脱出来ずに置いていかれる者がいる新世界を少佐は考慮しても肯定はしないのでは?
私はダブルシンクが継続しているものと考えます。それは最後の方で少佐が言う「次に特異点を迎えた」というセリフからです。これは少佐が日常的にやっている、仮想空間と現実空間の同時並行生活を全人類がするようになったことを指しているのではないでしょうか。
また、「摩擦のない世界」ですが、これは争いがまったくないわけではなく、争いが起きてもお互いが納得行く結果であったかのように双方が記憶の改ざんをされてしまう状態なのではないでしょうか?
なのでジョン・スミスも急に高慢な態度に戻った。東京のNたちは核ミサイルで復讐を成し遂げたという満足感を抱えて日々を暮らしている。
【少佐はコードを抜いていません。絶対です】
コードを抜いていたら、少佐は9課を去る必要がありません。
これが答えです。
■原作の単行本の最後では、少佐はAIと融合し、アップグレードを遂げた。
(結果、9課に留まる必要性がなくなり、更なる進化を望んだ)
■SAC_2045では、人類の殆どがNによってアップグレードを遂げたので、
少佐自身が更なるアップグレードを必要とし、9課を去った。
草薙素子は生まれながらのデバイスオタクです。
皆さんがWINDOWSをアップデートする様に、「常に最新」でなくてはならないのです。
私も【コードを抜いていない】派です。
人類が技術によって新しい生活を手に入れる、それは進化の一つだと思います。
全人類がN化されることについて過度に諦観することはないと思いますよ。
適度な人、過度な人は分かれるでしょうがAIが管理する社会の方がより良い未来を築けるのは明白で、人の愚かさと短い寿命を考えれば到達できない世界だからです。
ここからは感想ですが。
視聴者である我々へもダブルシンクさせるという仕込みは見事だなと感じました。
かつ既に現代人はダブルシンクをさせられていると私は気付いているので、面白い仕組みだと感じました。
西と東では全く違うニュースを流し、我々を都合の良い羊としている、ということが1つの理由ですね。
久しぶりに全話見ました。明確な答えがありました。最後のシーンでトグサに注目してください。離婚したはずの奥さんに今日は、帰れないとコールしていました。それぞれが、幸せな暮らしをしている世界が、プリンが言っていたシマムラの世界。トグサの幸せは、家族との暮らし。少佐は、コードを引き抜かなかったのです。